パニック障害を通り抜けて、今

パニック障害を患った私が寛解にまで漕ぎ着け、薬を抜くことに成功しました。その経緯を綴ってまいります。

(19)気を取り直して

私のこのブログにつきまして「書くべきではない」と言うご意見をいただきました。

また、「同じ経験をしています」と言うメッセージもいただいております。

まだまだ日本社会にはびこる精神科への偏見を少しでも取りのぞけるように、このブログ書き続けていきたいと気を取り直しています。

私が薬の助けを借りて、少しずつ出歩けるようになった頃、「ラジオのコーナーを担当してみませんか」というお誘いをいただきました。

MRTラジオ、当時は「暮らしのレーダー」という番組でした。月曜日に1回10分、語るエッセイをやってみませんかと言うお誘いでした。

まだまだ私の体調は不安定でした。

でも私はお引き受けすることにしました。

チャレンジしなければ前に進むことができない、そう持ったからです。

結果としてこのコーナーは12年間続きました。

体調が悪くめまいがする日は椅子に座ることができず、ディレクターにお願いして床に座ってハンドマイクを握って放送したことも何回かありました。

ラジオですのでその様子は見えませんけれども、今考えるとかなり滑稽な光景だったと思います。

そうした周囲の皆さんの助けを得て私は12年間、ラジオのコーナーを続けることができたのです。

私はそのラジオのコーナーの中で、私のパニック障害という病気をカミングアウトしました。

すると視聴者の方からメッセージやお電話をたくさん、いただきました。

「家族や自分自身がそういう症状を持っているのだが、どうしたらいいかわからなくて困っていました」

と言うものが多かったと記憶しています。

私は次の診察日に病院に行って先生にこう申ししました。

「先生、ラジオで私の病気のお話をしました。するとたくさんの反響がありました」

先生はたいそう驚かれました。

「あなた、自分の病気について語ったのですか!しかも、ラジオで!それができる人は治るんですよ」

私はもとより自分の病気を隠すつもりは全然ありませんでした。

ごく自然に取り扱ったテーマだったのですが、当時としては斬新なことだったようです。

そして先生は、このようにもおっしゃいました。

「家族に精神科に通院している者がいることを隠していると、なかなか症状が改善しないんですよ。周囲から、あるいは自分自身で、患者さんを追い詰めてしまうんです」

先生は続けておっしゃいました。

「私はあなたを初めて診た時、廃人になると予想したんです。今だから言えることですけど」

どうやら私自身のあけすけな性格が私を救ったようです。

その頃、私と同じ病気を患っていた人が一人自殺をなさいました。

またある人は、自分の布団から出ることができず、布団の中だけの生活になっていらっしゃいました。

布団の中だけの生活になってしまった人は、私の憧れの先輩でした。

学生時代はとても輝いてる人でした。

その人もやはり結婚生活の中で、輝きを失ってしまったのです。

自殺した人も、布団の中だけの生活になってしまった人も、名家と言われる家に嫁いだ人でした。

おこがましさを許していただけるなら、私もその一人です。

世間体が彼女たちを追い詰めた、私はそう思っています。

(18)次女が離婚しました

次女が離婚届を提出しました。

留学を繰り返していてもう結婚しないのかなと思っていた次女ですが、3年ほど前に入籍婚をいたしました。

子供も生まれ私は安心してたのですが、今年に入って次女が離婚したいと言い始めました。

話を聞いてみますと、どうやら彼女の努力不足と言うことではなかったようです。

お産の時になぜ私を呼んでくれないのかなと、私は不思議に思っていましたが、ようやく次女が私に打ち明けてくれました。

夫である人が誰も呼ぶなと言ったとの事でした。そして里帰り出産も許さないと言ったのだそうです。

かといって夫である人のご両親が何かをして下さったわけでは無いようです。

彼女は産後退院してすぐに、自分で買い物に行き家事をこなしたと言いました。

夫は家事を手伝ってくれる事はなかったとも言いました。そして、最近は、夜も帰ってこないとのこと。

私は娘がそんな目に遭っていたのかと改めて驚きました。そして思いました。もう我慢する必要はないと。

すると私の夫が申しました。

「なぜ、もっと我慢ができないんだ」

私のパニック障害の原因になったのは夫のそういう考え方でした。

富山から宮崎に嫁ぎ、慣れない環境の中で孤軍奮闘する私を尻目に、夫は夜の街に出かけていました。

大家族である夫の実家で私は暮らしていました。夫と二人きりになる事はほとんどありませんでした。

その緊張が私を病気へと追い込んでいったのです。

離婚も考えましたが、どこに相談に行っても娘たち二人の親権は取れないと言うことでした。

私は離婚は諦めてこの家にとどまることにしました。

親権が取れない原因は実家の貧富の差でした。

私の実家は会社員の家庭。

夫の実家は多少資産がありました。

それが決定打になりました。

そして、その結果、一生モノと言う病気を背負い込んでしまった訳です。

辛抱しても、辛抱しても正当な評価を受けることなく、私の結婚生活は続きました。

私は娘たちの成長を待ちました。

そしてようやく二人を独立させました。

娘たちには私と同じ思いをさせたくない、その一心で頑張ってきました。

それなのに次女が私と同じ境遇に置かれようとしていました。

私のところに生まれてきてくれた娘です。

幸せになってほしいと思うのが親心です。

幸い次女は子供の親権を取ることができます。

やり直すことができる年齢でもあります。

私は彼女の選択を支持することにしました。

ところが夫は、長年の私の病気との戦いを見てきているにもかかわらず、

「 なぜもっと我慢できないんだ」

と申しました。

「あなたは、彼女を私と同じ病気にするつもりですか!」

私は言い返しました。

まだ1歳半の子供を抱えてのシングルマザー暮らしは厳しいものがあると思います。

それでも我慢するばかりの結婚生活を過ごすよりは、まだましかなと私は思います。

これから彼女をどのようにバックアップしてやれば良いのか、今、考えているところです。

(16)文学界の反応

編集員はこう答えた。

自衛隊なんて書いても載せないわよ」

それでも書きたいのだと言い続ける私に、別の編集員が言った。

「結論を提示してから書け」

その時私は、戦後日本文学がいかに左寄りであり、自衛隊を否定するものであるか、知ったのだ。

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やがてその騒動は地元の新聞を巻き込んだ討論会を引き起こした。

もちろん私はまだパニック障害を克服していなかった。

ただ私は私に立ち直りのきっかけを与えてくださった隊司令との約束を守りたかったのだ。

彼は退官する時に私にこう言った。

自衛隊に風を通してください」

それがどういう意味なのか、その時の私にはわからなかった。

とにかくアクションを起こせば、何か見えてくるだろう。

そう思って、私は防府北、芦屋、浜松と取材を敢行することにした。

その時の作品名は『Bace Nyutabaru』。

病気と闘っているはずだった私が、自衛隊を文学の世界に持ち込んだ者として、左翼的な文学界と闘う羽目に陥ってしまったのだ。

病気は寛解になったが、左翼の皆さんとの闘いは現在も続いている。

ある意味、左翼の皆さんと闘うことが、私に病気から抜け出すエネルギーをくれていたのかも知れない。

薬によってある程度まで回復した病気を、寛解に持ち込めるかどうかは気力の問題だ。

(15)旅の始まり

新田原基地の飛行教育航空隊で出会ったパイロットの皆さんは、どのようにして強靭な精神を手に入れたのだろう、私は興味を抱いた。

できれば戦闘機パイロットの成長過程を、作品にして発表したいと思った。

そのことを当時の飛行隊長に話すと、

「まず防府北基地に行ってみてください」

と言われた。

自衛隊については何も知らない私だった。

そんな私が俄然、戦闘機パイロットについて知りたくなったのだ。

私は防府北基地に向かった。

2002年のことだったと記憶している。

取材しながら書き繋ぐという手法を取ろうと思った私は、在籍していた文芸同人誌の編集委員にその旨を伝えた。

(14)彼女のこと

熊本にお住まいのFacebook友達の女性が亡くなったと、同じFacebook友達の方からお知らせをいただいた。

彼女は私と同じパニック障害を患っていた。

「私はもう抜け出せそうよ」

と言うと、彼女は、

「私は、まだ最中なんです」

と答えた。

どちらがどちらに友達申請をしたのか、もう覚えていない。

しかし、私たちは病気を通じて理解を深めていった。

向精神薬は神経の働きを鈍くさせるため、太りやすくなる。

私も症状がなくなってきたなと思った頃、太っている自分に気がついた。

彼女も一時期急激に太ったと言うことで、マラソンを走ったり山登りをしたりしていた。

太るとどうしても血圧が上がる。

彼女は運動することで痩せ、血圧を正常値に戻した。

私は彼女の経験談から学び、ジョギングを始めた。確かに血圧は正常値になった。

彼女の書き込みはいつも明るかった。

この病気は自分で自分を奮い立たせ、明るく振る舞っていないと症状が後退する。

彼女はそのことを知っていたのだろう。

彼女の書き込みが見られなくなると私は彼女に連絡をした。

「あなたの書き込みがないと、寂しいわ」

すると彼女はこう言った。

「だって生活にあまり変化がないんですよ」

それでも時々、彼女が山登りしている書き込みなどを見て、頑張っているなと思っていた。

私と彼女の間には、まだまだ時間があると思っていた。

やがて会えるものと、私は信じていた。

しかし彼女は突然クモ膜下出血で、亡くなってしまった。

もはや彼女と私の時間は取り戻せない。

会いたいと思った時に、会っておけばよかったと今激しく後悔している。

しかし、こうも思えるのだ。

やがて私もあちら側に行く。

彼女が迎えに来てくれたら、きっと楽しいことだろう。

話したいことがいっぱいある。

たまっている思いがいっぱいある。

彼女と再び会えることを信じて、今私は精一杯生きていこう。

(13)回復に向けての1番の問題点

パニック障害の患者の回復を妨げるのは、多分こういうことだ。

誰かの前で発作起こしたらどうしよう、誰かに迷惑をかけたらどうしようか、と思う。

不安が先に立ち、社会参加できないことへの焦り。

そうではないだろうか。

そのために外出ができなくなり、引きこもりがちになる。

気分転換ができず、落ち込みの螺旋の中に入ってしまう。

そうすると、回復を自分で遅らせることになってしまう。

私の場合はたまたま自衛官がたくさんいらっしゃるところに出向いたので、勝手に安心感を抱いていた。

後になってそのことを自衛官のある人に話すと、

「そういう考え方は、迷惑です」

と言われた。

そう言われてみれば、自衛隊基地は病院ではない。自衛官は救急隊員ではない。

勝手に思い込んでいた私が儲けていたわけだ。

私がパニック障害で悩んでいらっしゃる皆さんにお勧めしたいのは、自分が信頼できる人のいる場所に出向くことだ。

もちろん症状が悪い時は無理をする必要は無い。

今日は調子が良いかなと思える時に、すかさず出かけてみることだ。

この時注意するべき事は、医師の指示なく薬を減らしたり抜いたりせず、しっかり薬を服用していなければならない。

本当に回復期に入ると、時々薬を飲むことを忘れるようになる。それまでは自己判断で薬を減らしたり飲まなかったりすることは、症状を逆戻りさせる原因になる。

その日によって症状に波はあるが、薬を増やす事はなるべく考えない方が良い。

多少、具合が悪くても、手持ちの薬で乗り越えた方がいい。

薬を抜く段階で苦労することになるからだ。

私の知り合いで、パニック障害から立ち直れなかった人は、たいてい薬を増やしていた。

(12)飛行教育航空隊

新田原基地にはF-15戦闘機パイロットのライセンスを与えることのできる、日本で唯一の部隊がある。

それが飛行教育航空隊だ。

私はそこがそういう場所であることを知らず、暇をみては通った。

とにかく飛行機を見ていたかった。なぜか離発着を繰り返す飛行機を見ていると私は落ち着いた。

やがて私がその部隊に通いすぎると言うことが問題になったようだ。

「あんた、あんまり基地に行きなんなよ」

と、注意してくれる人もいた。

今になって考えると、私は人さまの職場にお構いなしにお邪魔していたことになる。でもその時の私には、自分しか見えていなかった。

それでも私は新田原基地に通い続けた。

その部隊には私を惹きつける何かがあった。

数秒の時差で離陸する二機のF-15

それを見ていると私は自分の病気を忘れることができた。

隊司令は、多分諦め半分だったのだろう。

いつも私を快く受け入れて下さった。

訓練機をずっと見ていて、私はあることに気がついた。

飛行機は同じように飛び立ち、同じように着陸するのだが動き方に個性が見える。

ある時、隊司令が私に訓練中のパイロットのコックピット内のビデオを見せてくださった。

彼らは自分と戦っていた。そして自分との戦いに勝ち抜いていた。

私は思った。

私が倒れてもせいぜい地面の上ではないか。

彼らが自分に負けたら飛行機は墜ちる。

私は薬を抱えて、怖い、怖い、と言っている自分が恥ずかしくなった。

この時から私は外出を恐れなくなった。

隊司令に見せていただいたビデオのおかげで、自分に必要なのは開き直りであると言うことを知ったのだ。

当時の飛行隊長は私の病気のことを理解していて下さった。だから今でも私の顔見ると「体調はどう?」と尋ねてくださる。

自衛隊についてはもっと深く書きたいことがあるのだが、本来のテーマから外れてしまうので別の機会に書きたいと思う。