(11)少しずつ落ち着いていく日常
投薬が始まってから1ヵ月余り、少しずつ私は外に出ることができるようになった。
それにはきっかけがあった。
娘の友人のお母さんで、美容師をやっている人が私の様子を見に来てくれた。
髪は伸び放題、身なりを整えていない私を見て彼女は驚いた。そして私の手を引っ張るなり、彼女は私を自分の車に乗せた。
「外出が怖い」
と訴える私を助手席に乗せて、彼女は私を自分の店に連れて行った。
「めまいがする」
と言うと、
「椅子を倒すから横になっておきなさい」
と彼女は私を身体ごと動かしながら、髪をカットしてくれた。
髪の手入れが終わり鏡の中の自分を見て私は驚いた。
先ほどまで病人のような様子だった私が、さっぱりとした雰囲気に変わっていた。
「ほら、できたやろ!」
彼女は私の目を覗き込んで(しっかりしなさい)と言っているようだった。
髪を整えることができたことで、私に小さな自信が芽生えた。
以後もそんな調子で、私は彼女の世話になった。
彼女が髪をきれいにしてくれることで、私は身なりを整えるようになった。
私が途中で発作を起こそうが何を言おうが、彼女はいつも強引に私の髪の手入れをしてくれた。
彼女が私に立ち直りの1段階目のステップを登らせてくれた。
この彼女だが、私はずっと甘えられるものと思い込んでいた。ところが、いつも「具合が悪いと」言っている私より先に亡くなってしまった。
心不全だった。49歳の若さで彼女はこの世を去った。
彼女に対する感謝を、私は忘れない。
⑽薬が決まるまで
再度精神科を訪れた私に、医師は開口一発、こう言った。
「池内の方から連絡が届きました。あなたは私の患者さんです。そこでまず確認しておきたいのは、あなたに転地療養する気があるかどうかということです。つまり離婚するつもりがおありかということなんです」
私は即答した。
「ありません!」
婚家は多少資産があった。
弁護士に調べてもらっていたが、私が娘たちの親権を取る事は非常に難しいと言うことだった。
私の実家と婚家では経済的な格差が大きすぎたのだ。
娘たちを失わないためには、私は今いる場所で頑張るしかなかった。
医師はっこり笑ってこういった。
「では今いる場所で頑張って治療しましょう!」
早速投薬が始まったが、私に合う薬を決めるまで時間がかかった。
最初は1週間おきに通院をした。
薬のマッチングを調べるための通院だった。
ようやく私に合う薬が見つかったのは、最初の投薬から3ヶ月ほどのちのことだった。
私は毎日、自分の体調を観察していた。
その間、私は病院の行き帰り、タクシーを使っていた。
発作は相変わらず頻繁に起こっていた。
いつもタクシーを使用する私に、ある時運転士さんが言った。
「たまには歩きやったらどうですか」
それができないからタクシーをお願いしてるのだ。
その時の運転さんの言葉は今でも心に突き刺さっている。
⑼まずは全身の検査から
私を迎え入れてくれた医師は、私の話を丁寧に聞いてくれた。
そしてこう言った。
「わかりました。もしかしたらあなたはうちの科の患者さんかもしれません。でもあなたの体に別の病気が隠れている場合があるかもしれません。まずは2泊3日で全身の検査を受けて下さい」
医師は、池内の古賀総合病院に宛てて紹介状を書いた。
家に帰りそのことを告げると姑はまた慌てた。
「家の中のことをする人がいなくなると困る」
一言で言うと、そういう人だったと表すしかない。
娘たちがいる。夫は留守がちだ。私がいなければこの子たちはどうなるだろう。
私は通院で検査を受けることにした。
通常の健康診断に始まり、24時間心電図や脳のCT撮影など、初めて受ける検査がたくさんあった。そして私は医師が入院して検査を受けることを勧めた意味を理解した。
検査を受けるだけでとても疲れた。
しかし私は、帰宅する途中で買い物し食事の支度をし、家事をこなした。
すべての検査の結果が揃ったのは、一週間後だった。 連絡を受けた私は池内の古賀総合病院の内科を訪れた。
「あなたの身体は健康です。あらゆる方面から見て、異常なしです。カルテは精神科の方に回しておきます。次回からは精神科にお越し下さい」
異常なし、と言われた私は落胆していた。 切って取れる病気の方が良かったのに、と。
かくして私は精神科の患者であると診断された。
⑻治療開始までの道のり
私が精神科の受診を勧められたことを知った姑は、慌てた。
家族が精神科を受診することに抵抗があったようだ。恥ずかしいという一心だったのだ。
夫は多分、私と姑の間にそういうやりとりがあったことには気づいていない。
姑は私の精神科行きを全力で止めようと試みた。しかし、私は可能性がある限り治療にチャレンジしたいと思った。
精神科という名称に対する根強い偏見が私の前に立ち塞がったのだ。
生きることを諦めたくなるような様々な症状に苦しめられていた私は、覚悟を決めた。誰に反対されても構わない。もう、姑の期待する良い嫁である事はやめようと思った。
「世間体が悪い」と引き止める姑を振り切って私は精神科を受診した。
私にも精神科に対する偏見がなかったわけではない。それでも、精神科を受診するしか治る方法がないとすれば、受診したかった。
私の中にも精神科というと、おどろおどろしいイメージがあった。しかし実際に訪れてみると、柔和な笑顔を浮かべた50代の医師が私を迎え入れてくれた。
閑話休題 2
6日から10日まで、千葉に住む長女のところに行っておりました。
長女には二人の男の子がおります。
長男は小学校の四年生。
次男は保育園の年長さん。
二人とも1ヶ月検診まで、毎日、私が沐浴させました。
今回の最大のイベントは、次男の方の「敬老お楽しみ会」でした。
私はそんなイベントに誰も来てくれず、寂しい幼少期を過ごしました。
そこで、 張り切って出かけました。
孫は待っていてくれました。
私が教室に入って行くと、
「あっ!来た!」
と喜んでくれました。
宮崎に帰る日は、長男の野球の練習を見に行きました。
孫は私が練習を見ていたことに気づいていなかったようですが、後で知って喜んでいたそうです。
私がパニック障害に負けていたら、孫は寂しい思いをしていたことでしょう。
パニック障害は克服できます。
そして楽しい日々を取り返すことができます。
明日からまた、私の闘病記を書き続けます。
お付き合い下さい。
⑺精神科⁉︎
このままではいけない。
いつまでも発作に怯えていてはいけない。
そうは思うのだが、どうしたらいいのかわからない。
医師に相談するしかないな、と私は思った。
救急車に同乗してくれた医師の病院に行ってみることにした。
家からはほんの数百メートルの距離なのだが、その時の私にとっては大冒険だった。
一歩進んでは立ち止まり、一歩進んでは立ち止まりの繰り返しで、私はようやく病院に着いた。
果てしない道のりを歩いたような気がした。
医師に事情を話した。
医師は私の話を丁寧に聞いてくれて、こう言った。
「私の友人に精神科の医師がいます。その人に相談してみますか?」
医師は我が家の事情を薄々察していたらしい。
そして、私が相談に訪れることも予想していたようだった。
縁はないと思っていた精神科という分野。
しかし、生きるためには前進するしかない。
私は以来長い付き合いになる、古賀総合病院の精神科医長に宛てた紹介状を握りしめて帰宅した。
当時、古賀総合病院の精神科は宮崎駅のそばにあった。内科や外科など他の診療分野や入院患者は、新築された池内の病院に移りつつあった。
⑹自宅に戻って
ようやく点滴から解放されて喜んだのもつかの間、私は絶え間なく襲ってくるめまい、動悸、過呼吸に悩まされた。
怖くて外出ができない。
着替えることもお風呂に入ることも怖い。
私は何日も同じジャージ上下で過ごした。
しかし、中学生の娘が二人いた。
何とかしなければ、と焦った。
でも、自宅から100メートルほど離れた飲料水の自動販売機まで歩くことができないありさま。
食糧は姑が買ってきてくれるのだが、ガスコンロの前に立って調理するのが怖い。
娘たちにはちゃんと食べさせてやりたい。
考えて、考えて私は昔使っていた電熱器を探した。幸いに、使える状態だった。
これなら、しゃがんで火を使うことができる。
鍋に覆いかぶさるように調理している私を見て、娘たちは、
「お母さんが魔女のシチューを作っている!」
と冷やかしていた。